おもしろき こともなき世を おもしろく

教育関連、マスコミ、その他日常感じたことを綴る雑記です。

【詐欺解説】チケット詐欺

以前、AKB48の握手券偽造が話題になったが、チケット絡みは詐欺の温床になっている。

 

オークションでチケットを高額で落札したのに届かない、届いたチケットは偽物だった。

こうした話は枚挙に暇がないほどだ。

 

これにはいくつかの理由がある。

まずはチケットの簡易化。オンライン化が進んだため、どこでも申し込みが可能となり、発券は端末で行われることが増えた。

こうなってくると、どうしても簡易印刷に近いものになってくる。

用紙自体に工夫はされていても、パソコンのテクノロジーがこれだけ進歩してしまうと、変造・偽造は特殊な技術はほとんど必要ないと言っていい。

 

次にチケットというものの本質。

チケットというのは、何かを見る権利、もっと言えば制限された場所に入る権利である場合がほとんどだ。

その権利を金で買うわけで、権利は金そのものではない。

にもかかわらず、実際には転売といった形で金に換えることが可能になってしまう。

こうなると、一種の兌換性が認められるため、疑似通貨のような扱いになってしまう。

 

形はチケットの売買だが、実際は金を売っているような意識になりやすい。

特に人気のあるアーティストのチケットならば、数倍から十数倍になることもある。

錬金術のような気分になるケースもあるだろう。

 

加えて、ネット等を利用することで、実物の存在を誤魔化すといった悪質な考えを持つ詐欺師も出てくる。

仮に画像を掲載しても、画像に手を加えるのは、紙のチケットを変造するより遥かに容易だ。

 

こうした犯罪はプロより素人が多く、手口自体は稚拙なものが多い。

金券ショップに転売するよりも、自分で転売した方が儲かる。そんな発想から生み出されているからだろう。

 

W杯やオリンピックなど、世界的な大会でも偽造が問題になるように、チケットにはこうした危険が常につきまとう。

最近ではスマホやカードを利用して現場でチケットを発行するという手法が見られるが、偽造に対しては、ある程度有効な対抗手段と言えるだろう。

 

プレミアのついたものはどうしても欲しい側が弱くなる。

売り手の条件を飲まざるをえないところも出てくる。

こちらから条件をつけたら断られるという怖さもある。

それだけに、リスクがつきまとうことをよく理解しなければならない。

【詐欺解説】必勝法詐欺

パチンコ・パチスロ関連ほど、怪しげな人間・団体が多いのも珍しい。

もともとジンクスの多い遊戯である。「雨の日は出る」「表から見える台は出る」など。

こんな話を聞いたことがある人も多いはずだ。

コンピュータ制御の時代にこのようなものは全く通用しない。

にも関わらず、勝つ方法を求める人間は絶えず、それを餌に騙す連中も絶えない。

 

その背景にあるのは、プログラミングのミスを利用して出すことができたという過去の事実だ。

実際にはすぐに対策を講じられてしまったのだが、短期間でこのキズで上手く行った例があった。それが一種の都市伝説と化し、必勝法なる幻想が渦巻いている。

 

賭け事に「絶対」はなく、だからこそ必勝法もないのである。

もしあるとすれば、自分が胴元になることで、これならば絶対に損はしないが、日本では法律で禁止されている。

従って必勝法は存在しない。

 

パチンコ・パチスロの必勝法、攻略法なるものもまったくのデタラメばかりで、仮に出たとしてもそれは情報が正しかったからではなく、運がよかっただけだろう。

とどのつまり、必勝法を教えるということが「必勝法」なのだ。

 

また、必勝法詐欺とは別に「打ち子詐欺」というものも横行している。

こちらは、「繁盛店に見せたいのでサクラをやってもらう」というもの。儲かった分の半分程度を振り込むようにというもので、詐欺師は大勢に声をかけ、偶然出た人から儲けようという仕組みだ。

 

無料情報として接近してくることも多い。

「だめだった」と連絡すると「じゃあ今度はより確実なものを」とまた無料で教えてくれるが、当然だめ。

そうすると「特別な情報は有料だが、あなたには特別価格で」などと持ちかけて金を要求してくる。

 

コンピュータに細工をして大量に出す手口もあり、これの打ち子誘われるというケースもあったが、これは完全な犯罪なので、知ってて打っていれば確実に逮捕されることもある。

博打はすべてハイリスク・ハイリターンであることを忘れずにいれば引っかかるはずもない詐欺である。

 

この世に確実に勝てる方法など存在しない。

 

この言葉だけ覚えておけば、騙されることのない詐欺なのだ。

財務省セクハラ問題は本当にあったのか?

財務省のセクハラ問題については私は初めから懐疑的です。

 

所詮盛り上がっているのは暇なマスコミだけですからね。現段階においては、そこまで騒ぐようなことではないと思いますが。

 

今回のセクハラ問題について、可能性を考えてみましょう。

 

①セクハラがあった可能性

音声テープが出ていますから、多かれ少なかれセクハラがあった可能性はあります。

 

しかしそのテープには財務省側の音声しか入っていないため、状況は不明瞭です。

おまけに被害者が名乗り出ていないため、実情は不明。

 

この状態で「セクハラがあった」と断言するのはどうなんですかね?

 

出れない気持ちもわからないでもないですが、だったらマスコミはこんなに無駄に騒ぐべきではありません。

 

②セクハラはなかった可能性

そもそも被害者不在の状態ですから、セクハラの有無は審議しようがありません。

 

当然、そもそもセクハラはなかったという可能性も少なからずあるでしょう。

 

また週刊誌には情報提供するのに、名乗り出てこないというのもねぇ…

だったらそもそも週刊誌に情報提供するべきではないし、したのであれば覚悟を決めて最後まで戦えって話です。

 

感情論で裁いてはいけない。

日本は法治国家です。

「疑わしきは罰せず」という大原則があります。

明確な証拠も上がっていないまま、不確かな情報だけでセクハラ認定するのは間違っていると思います。

 

現段階ではセクハラの有無は不明と言わざるをえません。

マスコミは世論を誘導して、なんとかしてセクハラがあったことにしたいようですが、国民はそんなに愚かではないと示さなければなりません。

努力は素晴らしいという幻想

努力ってなんだかよい響きですよね。

素晴らしいかったり美しかったり、応援したくなる気持ちがでてきます。

 

努力ってそんなに素晴らしいですか?

私は疑問でなりません。

 

努力絶対主義から脱却せよ!

子どもだろが大人だろうが、努力することは当たり前のことです。

褒められるようなことではありません。

 

だいたい努力というものは過程であり、手段にすぎせん。

私が伝えたいのは、努力を目的にするなということです。

 

努力すること自体が目的になってしまうと本末転倒です。

成功することよりも、努力に目がいってしまうからです。

 

「上手くいかなかったけど、努力したから偉い」

 

これはもはや意味不明です。なんのために努力しているのか目的を見失ってしまっています。

 

上手くいかなかったのであれば、その理由を分析し、次につなげようとしなければ無意味な失敗となってしまいます。

 

過程主義の学校と結果主義の社会

 

学校ではどうしても過程に注視する必要があります。

例えば

・毎日勉強したけど60点しかとれない子ども。

・あまり勉強してないけど100点をとる子ども。

学校ではどちらかというと前者の評価が高くなります。

 

ですが社会に出るとこれが一気に反転します。

例えば

・ちゃんと仕事をしているが10万しか売上がない営業マン。

・大して頑張っていないが効率よく100万売り上げる営業マン。

企業で評価されるのは後者です。

 

ここの評価が一気にズレるからいきなり社会に出ると戸惑いを感じてしまうのです。

 

結果を残せる努力が必要!

 

私は努力を全否定しているわけではありません。

最良の結果は最良の努力から生じると思っています。

 

つまり、努力するなら努力のベクトルを合わせるべきだと思っています。

 

ただ漠然と努力するのは無駄な努力。

目標を明確にし、目標に対して正しい努力を継続することが大切なのです。

 

ただなんとなくの努力を褒めてはいけません。

正しく努力していたら、その時にしっかりと褒めてあげるべきなのです。

 

お金と教育

日本では様々な教育が子どものうちからなされます。

ところが、社会に出てから必須となるにも関わらずほぼ禁忌とされ触れられないものがあります。

 

それがお金に関することです。

 

なぜ日本では金融教育が行われないのでしょうか?

 

お金を稼ぐことは悪なのか?

お金の話ってなかなかしないですよね?

なんだかしちゃいけないような、タブーな感じがしません?

 

そのお金の話はタブーという考え方が、金融教育を遠ざけているような気がします。

 

大人はお金を稼ぐために働いているのに、子どもがお金の話をすると大人はいい顔をしない。

なんだかすごく違和感を感じませんか?

 

金持ち=悪という負のイメージ連鎖

世間一般ではお金持ちと言うと、なんだか負のイメージがあります。

 

例えば、有名財閥のお嬢様で学校一の才女。生徒会長を務め、モデルにスカウトされるような美女。

 

なんとなくいい感じしませんよね?

いけすかないというか何というか…

 

ですが、それがもう印象操作にハマってる証拠です。

要は自分よりも優位に立つ人間に対する羨望、嫉妬が勝手にマイナスイメージを先行させてしまっているのです。

 

つまり、お金を持っていることは悪いことではありません。

それは社会に出たら当たり前のことです。

であれば、教育内でもお金に対する正しい知識を伝える場が必要なのです。

 

現代社会を生き抜くための金融教育を今こそ。

 

現代社会において、お金を稼ぐ手段は多岐に渡ります。

汗水垂らして労働の対価としてお金を得ることは、選択肢の一つでしかありません。

 

ところが伝統的に日本では、汗水垂らした労働が美学とされ、他の手段は異端だとして排除する傾向にあるように感じます。

 

お金を稼ぐとはどのようなことなのか?

どのような手段があるのか?

 

その点を正しく伝える現場が今の日本にはほとんど存在しません。

そこに気づかない子どもたちが無知な大人として搾取される側に回ってしまうのです。

 

今こそ、勇気をもった金融教育を始める時期に来ているのかもしれません。

【学力向上】歴史は暗記しても点はとれない。

親世代からすると社会という科目には、暗記すれば点がとれる!という印象をお持ちの方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

 

実はその考え方は、化石並みに古い考えだということを知っていますか?

もし自分の子どもに「社会なんて暗記すりゃ点とれるだろ」なんて言っているのであれば、即刻改めるべきです。

そのままでは、親のせいで子どもはいつまでも誤った認識を持ったまま勉強に取り組むことになってしまいます。

 

暗記はゴールではなくスタート。

暗記しても点がとれないと言いましたが、決して暗記の必要がないわけではありません。

 

暗記は非常に重要なファクターのひとつです。ただし、今と昔ではその活用の仕方が異なるということです。

 

〈過去〉

覚えた用語を書けばよい。

〈現在〉

覚えた用語の内容や背景、理由を説明出来ないといけない。

 

つまり暗記が不要なのではなく、むしろ必要不可欠なものです。

ただし、暗記だけでは意味がないということを理解しなければいけません。

大切なのはその用語は何なのか、背景は何か、何故起きたのかなどを正しく理解し、説明できる能力だということです。

 

親世代より難易度は上がっている。

まず過去と現在で、社会の難易度は上がっていることを理解する必要があります。

 

もはや暗記だけでは成績が上がらない科目になっています。

用語説明や理由説明など、記述できるような勉強法が必要です。

 

アウトプットしながらインプットする。

社会の効果的な勉強法として、問題集を反復して解くというものがあります。

いちいち教科書にアンダーラインを引いたり、内容をノートにまとめたりするよりもよっぽど効果的な手法です。

 

ここで意識してほしいのは、用語の内容を確認することです。

楽市楽座とは何なのか?その結果どのような影響があったのか?など、このようなことを教科書を用いて確認します。

 

これを繰り返すだけで、社会苦手から脱却することが可能です。

現在の入試の出題方式を正しく理解して、正しい勉強を行いましょう。

グローバル教育の虚像

グローバル教育や英語の重要性がよく叫ばれています。

もちろん、私もグローバル教育は大切だと思っています。が、正しく理解している日本人がどれだけいるのかは疑問が残ります。

 

英語を話せる人は世界中にいる。

グローバル教育=英語と結びつけるのは流石に安直すぎるとは思いませんか?

英語を公用語にしている国は合計50か国、約6億人が英語を公用語として使っています。

それ以外でも英語を話せる人は多数いますから、英語を話せることはステータスでも何でもありません。むしろ最低限のスキルです。

 

いまどき日本くらいじゃないですか?グローバル教育の名で、単純な英語教育のみに力を入れている国は。

大切なのは英語を話せることではありません。

本当のグローバル教育を目指すのであれば、英語の習得はスタート地点に他ならないからです。

 

日本を英語で伝えられる日本人になろう。

海外の方が知りたいのは日本の文化や伝統です。

あまりに海外に目を向けるあまり、自国を知る機会を逸しているような気がします。

我々日本人はどれだけ自国の文化や伝統を知っているのでしょうか?

 

日本の世界遺産を全て紹介できますか?

日本の国鳥は?なぜその鳥が国鳥なのか説明できますか?

海外の人に紹介するべき代表的な食べ物は?観光地は?

 

海外に目を向けることは大切です。

俯瞰的な視野を手に入れるためにはとても重要なことでしょう。

ただし、世界が欲しているのは英語を話せるだけの人間ではありません。

自国の文化や伝統を理解し、世界へアウトプットできる人材こそが、今後広がるグローバル社会にとって必要な人材となるのです。

 

何度も言いますが、英語を話せることは世界へ出る最低限の要素にすぎせん。

英語が話せる=グローバルという思想こそが、日本のガラパゴス的発想だと理解する必要が今こそあるのです。