【詐欺解説】劇場型詐欺
劇場型詐欺という言葉がある。
まるで劇の一部であるかのような、様々な役割を持った人間が登場し、物語を見ているような錯覚を起こしてしまう犯罪のことだ。
日本での代表的な例は、キツネ目の男で知られる「グリコ・森永事件」だろう。
詐欺も劇場型が増えている。
言うまでもなく振り込め詐欺は完全な劇場型だ。
本人役、警察役、弁護士役、医者役など様々な役者が登場する。
いくら劇場型といえど、詐欺は第三者もあまり楽しむことはできない。
この劇場型で目に付くのは利殖商法だろう。
高齢者を対象にした悪質なものが多く、イラクディティールやスーダンポンドなどの外貨紙幣をネタにしたもの、マカオカジノ利権など投資をネタにしたものがよく知られる。
これらの特徴は売り手と買い手が巧妙にタッグを組み、被害者を囲い込んでいくところだ。
電話勧誘とパンフレットがまず登場する。
突然の利殖話に首を捻っていると、今度は買い手が登場。
ありそうな名前を名乗って「もし買ったのなら、是非とも譲った欲しい。金額は相談に乗るが、とりあえず5倍くらいを考えている」と持ちかけてくる。
これだけではまだ疑問符がつくが、さらに別業者からも連絡してくる。「〇〇という会社から買い取りの連絡がなかったですか?ああ、やっぱり、5倍ですか?くそ、あ、失礼。では、うちは7倍出します。お願いします」
こうした連絡が、いかにも会社からかかってくるような喧騒とともに何度もかかってくる。
なにしろ、長期の投資とは違う。買えばすぐにでも数倍になるのだ。
目の前に利益がある。複数の買い手がいるということは、すなわち市場として成立していることの証明にもなっている。
相談相手がおらず、孤立化して、しかしとりあえず蓄えはある。
そんな高齢者が狙われてしまう。
もちろん、買った後には買い取りの連絡はなく、仮に連絡がとれたとしても「では、金を用意して連絡するので待っててください」と引き延ばされ、最後には姿を消してしまうのが常道だ。
【詐欺解説】詐病詐欺
社会保障制度を利用し、鬱病と偽って傷病手当金を詐取するのがこの詐欺の正体である。
病気には医師であっても判断が難しいものがいくつかあり、そのひとつが精神系統疾病である。
なにしろ外傷があるわけでもなく、レントゲンやMRIといった装置による診断ができないのだから、基本は問診になってしまう。
医師は患者の状態や受け答えから判断するのだが、鬱病患者の特徴を相手が熟知していたならば、詐病を見破るのは難しい。そこを利用した犯罪である。
もともと医療系詐欺は保険金を狙ったものが多く、場合によっては病院側まで加担しているケースも存在する。
保険適用期間が過ぎる前に別の疾病が判明して、さらに保険適用がなされるといった手法で、発覚すれば当然詐欺になる。
仮に医師が治ったと判断しても、本人が痛みがあるといえば治療を継続することもよくある。
ムチウチのような自己申告が有用な症状では珍しいことではない。
保険会社側も、自傷行為や詐病に対しては厳しいチェックを行うようになっているが、社会保険の場合は公的保険のため、チェックは比較的甘い。
狙うのは無論、その甘さである。公的なものほど「お役所仕事」で杜撰になりがちである。
ストレス社会になり、鬱病が大量に増えていることから、今後も同様の詐病犯罪は続いていくと思われる。
また、気を付けたいのは「人間関係で狙われる」可能性があることだ。
上司のイジメで鬱病になったと訴えられることだってあるだろう。それが詐病だったとしても、見抜くのは難しい。
無関係であると証明するためには、日常の行動が重要になる。
しかし、人の心、そのすべては残念ながら科学で覗くことはできないのだ。
【詐欺解説】投資顧問詐欺
FXであれ、なんであれ、投資はすべて博打である。
ハイリスク・ハイリターンが基本であり、気軽にできるものでは本来はない。
無責任な評論家や一部マスコミが煽りに煽ったことで「誰でも簡単に儲かる」という誤ったイメージが広がっている。
誰かが得をすれば、誰かが損をするという基本原則すら忘れられてしまっている。
その結果、軽い気持ちで手をだし、痛い目にあうこともままあるのだ。
そのような状況下だからこそ、「私に任せておけば大丈夫」という詐欺師が出てくるのはむしろ当然かもしれない。
こういう詐欺師は道具立てをしっかりとしてくる。
詐欺は中身よりも見かけが大切であるから、家にしても外観が立派で奥行きよりも横幅、つまり見た目の広さを重視する。
流行の場所に事務所を構えるのも基本中の基本で、東京ならミッドタウン辺りが多くなる。
自信に満ち、高級ブランドを身にまとい、話題の場所に事務所を構え、立派な邸宅に住む。
この「見かけ」こそが相手を騙すための重要な要素になっているのだ。
多くの投資・出資系詐欺と同様に、初期配当を行うことも共通した特徴。
集めた金の一部を返却しているだけに過ぎないのだが、出資した側からすれば「本物」に見えてしまう。
十億集めれば、そのうち一割を配当に使っても九億が手元に残る。
仮に五億使っても五億残るのである。
詐欺師にしてみればまさに「濡れ手に栗」だ。
それにしても、こうした金融商品に手を出す人が多すぎる。
どんな内容、どんな名称であっても、こんなものはすべて相場と変わらない。
そして、相場に手を出して成功した人は少ない。
確かに個人トレーダーで大金をつかんだ人もいる。
だが、その背後には大量の敗者がいるわけで、自分がそちらにならない保証はどこにもない。
こうした詐欺に騙される人は、要するに「絶対に勝てるギャンブル」がある思っているようなもので、その段階で博打打ちのセンスも無いのだ。
そんな人が増え続ければ手数料で儲けている会社だけが笑い続けるという絶対原則がこれからも続き、ますます繁盛するのだろう。
なんとも情けない話である。
【詐欺解説】チケット詐欺
以前、AKB48の握手券偽造が話題になったが、チケット絡みは詐欺の温床になっている。
オークションでチケットを高額で落札したのに届かない、届いたチケットは偽物だった。
こうした話は枚挙に暇がないほどだ。
これにはいくつかの理由がある。
まずはチケットの簡易化。オンライン化が進んだため、どこでも申し込みが可能となり、発券は端末で行われることが増えた。
こうなってくると、どうしても簡易印刷に近いものになってくる。
用紙自体に工夫はされていても、パソコンのテクノロジーがこれだけ進歩してしまうと、変造・偽造は特殊な技術はほとんど必要ないと言っていい。
次にチケットというものの本質。
チケットというのは、何かを見る権利、もっと言えば制限された場所に入る権利である場合がほとんどだ。
その権利を金で買うわけで、権利は金そのものではない。
にもかかわらず、実際には転売といった形で金に換えることが可能になってしまう。
こうなると、一種の兌換性が認められるため、疑似通貨のような扱いになってしまう。
形はチケットの売買だが、実際は金を売っているような意識になりやすい。
特に人気のあるアーティストのチケットならば、数倍から十数倍になることもある。
錬金術のような気分になるケースもあるだろう。
加えて、ネット等を利用することで、実物の存在を誤魔化すといった悪質な考えを持つ詐欺師も出てくる。
仮に画像を掲載しても、画像に手を加えるのは、紙のチケットを変造するより遥かに容易だ。
こうした犯罪はプロより素人が多く、手口自体は稚拙なものが多い。
金券ショップに転売するよりも、自分で転売した方が儲かる。そんな発想から生み出されているからだろう。
W杯やオリンピックなど、世界的な大会でも偽造が問題になるように、チケットにはこうした危険が常につきまとう。
最近ではスマホやカードを利用して現場でチケットを発行するという手法が見られるが、偽造に対しては、ある程度有効な対抗手段と言えるだろう。
プレミアのついたものはどうしても欲しい側が弱くなる。
売り手の条件を飲まざるをえないところも出てくる。
こちらから条件をつけたら断られるという怖さもある。
それだけに、リスクがつきまとうことをよく理解しなければならない。
【詐欺解説】必勝法詐欺
パチンコ・パチスロ関連ほど、怪しげな人間・団体が多いのも珍しい。
もともとジンクスの多い遊戯である。「雨の日は出る」「表から見える台は出る」など。
こんな話を聞いたことがある人も多いはずだ。
コンピュータ制御の時代にこのようなものは全く通用しない。
にも関わらず、勝つ方法を求める人間は絶えず、それを餌に騙す連中も絶えない。
その背景にあるのは、プログラミングのミスを利用して出すことができたという過去の事実だ。
実際にはすぐに対策を講じられてしまったのだが、短期間でこのキズで上手く行った例があった。それが一種の都市伝説と化し、必勝法なる幻想が渦巻いている。
賭け事に「絶対」はなく、だからこそ必勝法もないのである。
もしあるとすれば、自分が胴元になることで、これならば絶対に損はしないが、日本では法律で禁止されている。
従って必勝法は存在しない。
パチンコ・パチスロの必勝法、攻略法なるものもまったくのデタラメばかりで、仮に出たとしてもそれは情報が正しかったからではなく、運がよかっただけだろう。
とどのつまり、必勝法を教えるということが「必勝法」なのだ。
また、必勝法詐欺とは別に「打ち子詐欺」というものも横行している。
こちらは、「繁盛店に見せたいのでサクラをやってもらう」というもの。儲かった分の半分程度を振り込むようにというもので、詐欺師は大勢に声をかけ、偶然出た人から儲けようという仕組みだ。
無料情報として接近してくることも多い。
「だめだった」と連絡すると「じゃあ今度はより確実なものを」とまた無料で教えてくれるが、当然だめ。
そうすると「特別な情報は有料だが、あなたには特別価格で」などと持ちかけて金を要求してくる。
コンピュータに細工をして大量に出す手口もあり、これの打ち子誘われるというケースもあったが、これは完全な犯罪なので、知ってて打っていれば確実に逮捕されることもある。
博打はすべてハイリスク・ハイリターンであることを忘れずにいれば引っかかるはずもない詐欺である。
この世に確実に勝てる方法など存在しない。
この言葉だけ覚えておけば、騙されることのない詐欺なのだ。
財務省セクハラ問題は本当にあったのか?
財務省のセクハラ問題については私は初めから懐疑的です。
所詮盛り上がっているのは暇なマスコミだけですからね。現段階においては、そこまで騒ぐようなことではないと思いますが。
今回のセクハラ問題について、可能性を考えてみましょう。
①セクハラがあった可能性
音声テープが出ていますから、多かれ少なかれセクハラがあった可能性はあります。
しかしそのテープには財務省側の音声しか入っていないため、状況は不明瞭です。
おまけに被害者が名乗り出ていないため、実情は不明。
この状態で「セクハラがあった」と断言するのはどうなんですかね?
出れない気持ちもわからないでもないですが、だったらマスコミはこんなに無駄に騒ぐべきではありません。
②セクハラはなかった可能性
そもそも被害者不在の状態ですから、セクハラの有無は審議しようがありません。
当然、そもそもセクハラはなかったという可能性も少なからずあるでしょう。
また週刊誌には情報提供するのに、名乗り出てこないというのもねぇ…
だったらそもそも週刊誌に情報提供するべきではないし、したのであれば覚悟を決めて最後まで戦えって話です。
感情論で裁いてはいけない。
日本は法治国家です。
「疑わしきは罰せず」という大原則があります。
明確な証拠も上がっていないまま、不確かな情報だけでセクハラ認定するのは間違っていると思います。
現段階ではセクハラの有無は不明と言わざるをえません。
マスコミは世論を誘導して、なんとかしてセクハラがあったことにしたいようですが、国民はそんなに愚かではないと示さなければなりません。
努力は素晴らしいという幻想
努力ってなんだかよい響きですよね。
素晴らしいかったり美しかったり、応援したくなる気持ちがでてきます。
努力ってそんなに素晴らしいですか?
私は疑問でなりません。
努力絶対主義から脱却せよ!
子どもだろが大人だろうが、努力することは当たり前のことです。
褒められるようなことではありません。
だいたい努力というものは過程であり、手段にすぎせん。
私が伝えたいのは、努力を目的にするなということです。
努力すること自体が目的になってしまうと本末転倒です。
成功することよりも、努力に目がいってしまうからです。
「上手くいかなかったけど、努力したから偉い」
これはもはや意味不明です。なんのために努力しているのか目的を見失ってしまっています。
上手くいかなかったのであれば、その理由を分析し、次につなげようとしなければ無意味な失敗となってしまいます。
過程主義の学校と結果主義の社会
学校ではどうしても過程に注視する必要があります。
例えば
・毎日勉強したけど60点しかとれない子ども。
・あまり勉強してないけど100点をとる子ども。
学校ではどちらかというと前者の評価が高くなります。
ですが社会に出るとこれが一気に反転します。
例えば
・ちゃんと仕事をしているが10万しか売上がない営業マン。
・大して頑張っていないが効率よく100万売り上げる営業マン。
企業で評価されるのは後者です。
ここの評価が一気にズレるからいきなり社会に出ると戸惑いを感じてしまうのです。
結果を残せる努力が必要!
私は努力を全否定しているわけではありません。
最良の結果は最良の努力から生じると思っています。
つまり、努力するなら努力のベクトルを合わせるべきだと思っています。
ただ漠然と努力するのは無駄な努力。
目標を明確にし、目標に対して正しい努力を継続することが大切なのです。
ただなんとなくの努力を褒めてはいけません。
正しく努力していたら、その時にしっかりと褒めてあげるべきなのです。